西方城(栃木県西方町)

西方町役場の北北西に見える標高221.3mの城山にある技巧的な宇都宮氏系の大型山城である。
かなりの規模とは聞いていたが予想以上の大きさであり、遺構もほぼ完存状態であった。

ただし、多くの山城同様、藪は凄い。
城山の最高地点に本郭を置き、南北に延びる尾根状の山500mにわたり、直線連郭式に曲輪群を展開させ、さらに東に派生する尾根300mに渡り東郭を置く。
麓平地部の標高が65m程度であるので、城の比高は150mほどである。

城は全体にT字型をした形をしている。城に行くには東北自動車道路の下をくぐり、登山口である山ろくの長徳寺に向かう。
寺の標高は若干高く100mほどであり、このため、平地からもその屋根が目立ち、すぐ分かるのであるが、そこまで行く道が細く、良く分からないのである。
こういう時は地元の人に道を聞けば良い。地元なら西方城も長徳寺も誰でも知っている。
長徳寺には駐車場があり、そこに車を置ける。
駐車場脇には西方城の縄張図と解説板がある。

ちなみに解説板には次のように書かれている。
「宇都宮遠江守綱景の築城と伝えられ、一時皆川氏の支配下にあった。
天正の頃、宇都宮国綱が奪取、対皆川氏戦の拠点になった城である。
雄大な本丸曲輪や虎口の築き方、また桝形、土塁、堀当に技巧の優秀性が随所に見られる。
特に南尾根筋から本丸に入る4ヶ所の虎口での防御機能は驚異的である。西方町教育委員会」

城址には長徳寺の裏から入っていくが、案内板も何もない。
裏手の谷津状の場所に竹林があり、そこに付いている道を進む。
ところで竹林の中の道が非常に怪しい。
どう見ても横堀なのである。
腰曲輪のような平坦地もある。
しかし、山側は地山のままであり、曲輪らしきものはない。
ここの部分は一体何なのだろうか、結局分からなかった。
道は谷津に沿って進むが、途中に炭焼きの窯があり、黒い開口部が不気味に開いている。
この少し先で道が不明瞭になる。

ここを右に行けば竪堀を経由して、北郭北の堀切に出るのであるが、藪状態になっていて道が確認できず、左に進んでしまった。
曲輪、土塁らしきものと井戸跡らしい大きな窪みがある。
道はこの付近でほとんど消えてしまう。
ここで敗退するのも癪なので、藪をいつものとおり強行突破する。
何とか東郭(城址の案内板には「東の丸」と書かれているが、「丸」は当時、この付近の城では一般的ではなく、中世城郭で用いられる「郭」を使う。)に出た。
ここの標高は170mであり、本城部分より50mほど低い。
そこまでの斜面は腰曲輪状に段々となっている。
主郭に当たる曲輪1は西側の本城側以外を土塁に覆われ、東側がくびれた形となり馬出枡形状の虎口がある。

南北30m、東西20m程度の広さである。虎口の両側は腰曲輪に通じる堀である。
その東側に広い曲輪2がある。東西60m、南北40mほど。南側は土塁が続く。
東側に虎口があるが、ここは直線的であり東に下って行く。
この曲輪の端は高さ5mほどの急な切岸になっており、堀がある。

その先はもう城外のような感じであるがまだ城郭遺構があるのかもしれない。
道をもどり本城側に行く。東郭と本城との境3には虎口があり、堀切、土橋がある。
堀切から南側の帯曲輪に通じる道がある。
この南側がもうゴルフ場であり、話声が山の中まで聞こえびっくりする。
この虎口を入って50mほど行くと、山側に土塁で囲まれた曲輪がある。
水の手または井戸曲輪という。

さらにくねくねと登って行くと、枡形虎口4に出る。右側(北)に行くと本郭、左に行くと南郭である。
南郭との間には土塁があり、堀があって土橋で接続される。
この構造は東郭との接続部と同じである。
なお、ここにある堀は斜面を竪堀になって東郭の南側まで下っている。
南郭も広い郭である。南北70m、東西40mほどもあり、東側以外を土塁が覆う。
南下にも曲輪があるが結構、高度差がある。

東の山麓から見た西方城 長徳寺裏の竹林の中には横堀
らしきものがある。
東郭の曲輪1南の枡形部分である
が・・。これじゃ分からん。
東郭の曲輪2は広大で平坦、土塁を持つ。
東郭の曲輪2南端の切岸。
5m位の高さがあり、下は当然、堀。
3の部分。東郭から本城部分に
入る虎口。
本城部分と東郭の中間部にある
井戸曲輪。
南郭内部は土塁で囲まれる。
4の部分。奥が本郭側。南郭から撮影。 5の本郭南の神社の社がある櫓台跡。 本郭は周囲を土塁が覆い南北に
虎口がある。
本郭下、二郭間の堀は竪堀となって
斜面を下る。通路でもある。
三郭内部。北郭側に土塁を持つ。 北郭は広大な空間である。 北郭北端の切岸。
下の堀底まで6mほどある。
北郭北の堀底はじぐざぐしながら南
斜面を下る。大手道でもあるのだろう。

南郭の標高は200mであるが、ここから北に延びる尾根状の山に500mにわたって曲輪群が展開する。
最高箇所の本郭が220mほどであり、北郭の外れの標高が200m程度であるので、この本城部分はそれほどの高低差はない。
枡形虎口を入ると2つの曲輪を経て本郭であるが、虎口の西側の曲輪が横矢のように配置される。
本郭までに2つの堀切があるが、石が崩れた所があり、かつては本郭入口の南側の虎口は石垣だったものと思われる。
郭は全周を土塁が覆い、南端に神社5が祀られている。

この神社の建つ場所は櫓台であろう。虎口は南北2箇所にある。
北下4mに二郭がある。東西70m、南北50mほどの広さである。
二郭は東西60m、南北30m位の大きさであり、北の三郭側と東側に土塁を持つ。
本郭の馬出のような曲輪である。本郭側の東には堀があり、竪堀となって斜面を下るが、斜面部の帯曲輪との通路でもあったと思われる。
なお、この山の斜面部の藪は凄く、帯曲輪はとても確認できるものではない。
木も余りなく、見学可能な場所は山頂部に並ぶ曲輪群に限られる。

二郭と三郭間は堀で隔てられる。三郭は東西60m、南北40mの大きさであり、二郭側以外を土塁が覆う。
さらに、堀を介して北郭である。この曲輪は2つの部分からなり、三郭側の東西50m、南北40mがあり、2m低く北に東西50m、南北100mの広大な曲輪がある。
この2つの部分の境6は複雑に土塁が入り組んでいる。
一種の枡形虎口なのだろう。
北側の曲輪は東側に若干傾斜し、北側と西側を土塁が覆う。
北側は微妙に横矢がかかっており、櫓台のような場所がある。
その北端は一気に6mほどの深さの堀切となる。
この堀底7は同時に馬出でもあり、さらに北側に堀兼用の通路が延び、途中で直角に曲がる。
この先は緩斜面であるが、特段の城郭遺構はない。
一方、東に延びる堀は竪堀となって3回ほど直角に曲がって、斜面を下る。
これが竪堀兼大手道なのであろう。この道沿いの南側に数段の帯曲輪が確認できる。
下った場所付近にも土塁があり、小曲輪状である。この付近がはじめ、迷い東郭に行ってしまったところである。

城址の解説にもあったように、永仁元年(1293)宇都宮遠江守綱景の築城という。
宇都宮領西の防衛拠点であるが、敵対する皆川氏との抗争が激しくなるにしたがって拡張されていったものと思われる。
皆川領、壬生領に突き出した宇都宮領の飛び地であり、皆川氏にとっては、首元に突きつけられた刃のようなものであった。

このため、一時的に宇都宮氏の勢力が衰えると、元亀元年(1570)北条氏の武将大道寺駿河守に攻略され、皆川氏の支配下に置かれる。
天正16年(1588)、宇都宮国綱が佐竹義重の支援を得て奪回し、再度、対皆川氏戦の拠点になった。
慶長2年(1597)宇都宮氏の改易により廃城となる。
宇都宮系城郭の傑作の1つであり、虎口や枡形の形状や雰囲気がどことなく多岐山城と似る。

光明寺城(都賀町家中)

東関東自動車道都賀ICの南東1kmの家中小学校東にある光明寺の境内が城址である。

二重方形館だったようであるが、外郭部の西側は小学校の敷地となり失われて、北側と東側の一部が残るに過ぎない。
しかし、本郭部は光明寺の境内となり、ほぼ完存している。

本郭は東西55m、南北79mで高さ4mほどある重厚な土塁に囲まれる。
北東端部には櫓台を持つ。
周囲は水堀であったが、現在は水はない。
堀としては北側の西半分と西側のみが残る。

外郭は東西120m、南北175mの規模であったが、一部が残るのみ。
堀は完全になくなり、跡が畑として残るのみである。

弘治年間(1555−1557)宇都宮氏家臣、細井駿河守光明が築城したが、永禄3年(1560)壬生氏に攻め落とされたという。
細井光明の菩提を弔うため建立されたのが光明寺とも、東にあった寺を移設して光明寺と改称したともいう。

@光明寺の仁王門は城の大手に建つ。 A本郭南西端の堀は折れを持つ B本郭北東端の櫓台。
C外郭北東端の土塁 D外郭北東端の堀跡と土塁 E本郭北西の堀